宮沢賢治が語る「クラムボン」とはなにか
僕は本作を、絵 山村浩二、英訳 アーサー・ビナード版で読んだ
巻末にアーサー・ビナードさんが「クラムボン」について言及している
「クラムボン」とはなにか
プランクトンが元になった節
プランクトンをシャッフルして「クランプトン」→「クラムボン」説
作中の主人公、蟹(crab)の母(ボ)が登場しないため、それを表す呼び名としての「クラムボン」説
蟹、骨(ボーン)としての「クラムボン」説
たしか、ボーンには「生まれる」という意味もあったはずである、その線の説もあっても良いのではないか
こういうのを考えたり、想像したりすることが僕は好きである
正解は無くても良い
個々人が好きに想像や解釈をして良いのだ
それに、宮沢賢治は詩人である
「クラムボン」という言葉に意味を持たせていたり、持たせていなかったりするだろう
読み手にとって、それぞれのストーリーが作られる状況を
あえて広がりを見せる言葉を主題に置くことで
その隙間を作り出すことで
楽しませているような気がしてならない
僕はそんな状況の中、タイトルの「やまなし」の方が引っ掛かっていた
「山梨県」の話だと思っていたからだ
しかし、作中では1個の「梨」が登場するため
そういうことだったのかとがっかり(?)はしていないが、そういうことだと捉えた
それでも、宮沢賢治は学生時代を山梨県で過ごしていたことから、そのような関連を持たせている可能性は十分にあると思える
作中には、その他に、かわせみ、さかな、呼吸の泡が登場する
この本は命の営みや儚さ、食物連鎖を感じさせるものであった
生きているということはどういうことか
死ぬとはどういうことか
それらを間接的に表現している
つまり、蟹(crab)生まれる(born)→蟹の命の営み→蟹、生きる
蟹の命=生命=私達の命
この世界は生命の営みで溢れている
これが正解なのだろうか
「生きろ。」 by宮崎駿を
連想させる物語であった
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